今でも多くの源泉を有する熱海温泉。
その中でも熱海の温泉の歴史で欠かせないのが「熱海七湯」です。

いろいろな伝説や語り継がれた物語りに思いを馳せて、熱海情緒を楽しみながら、
源泉を巡り歩くのも人気です。

※熱海七湯は源泉地で、入浴などはできませんのでご注意ください。

このあたりを東浜といい、道もなく石のごろごろとした河原で、 温泉が絶えず豊富に湧き出ていて村人の入浴場でした。

湯治客は「大湯」の源泉が主に使われ、他の源泉も限られた家のみが使用するお湯で、 熱海村の農民や漁師や近郷の人達が自由に入浴できるのはこの「河原湯」だけでした。
寛文6年(1666年)小田原城主稲葉美濃守が、 村民のために浴室を設けてその屋根を瓦葺としたため、「瓦湯」と称したとも言われています。

この湯は神経痛やリューマチなどに効能があり塩分が多く、 人が入ると透明な湯が白く濁るほどであったといいます。

佐治郎という者の邸内にあったことから「佐治郎の湯」といわれました。

また、この源泉は明治のころは上杉助七という者の邸内にあり、のち新かど旅館の所有になったので「新かどの湯」ともいわれました。

この湯は火傷にも良いが眼病にも効くといわれ、別名「目の湯」ともいいました。

昔、農民の清左衛門という者が馬を走らせて、この湯壷に落ちて焼け死んだので、 その名が付いたといいます。

明治までは、昼夜常に湧き出てたえることがありませんでした。

人が大きな声で呼べば大いに湧き、小さな声で呼べば小さく湧き出たといわれています。

「風呂の湯」は、昔の坂町高砂の庭から湧き出ていました。(今の福島屋旅館の西側)。この湯は外傷に良いといわれ、また、 湯気の上騰が盛んでまんじゅうを蒸したり酒を温めたりして販売していました。
「風呂の湯」のそばから1.5メートルほど東のところに塩分のない温泉が 湧き出ていました。

淡白無味で真水を温めたようであったことから「水の湯」と名付けられました。

明治11年、大内青巒の熱海史誌には、「淡白無味常水をあたためるもののごとし」と記されています。

古来からの間歇泉で世界的にも有名な自噴泉でありました。

「大湯」の噴出は昼夜6回で、湯と蒸気を交互に激しい勢いで吹き出し、地面が揺れるようであったといいます。

明治中頃から次第に減少し大正12年に止まってしまいましたが、(大地震の際に再び噴出したこともありました) 昭和37年に人工的に噴出する間歇泉として整備、市の文化財として保存し、現在に至っています。

沢口弥左衛門、藤井文次郎、米倉三左衛門の庭の湯を「平左衛門の湯」と称していました。また、土地の人は小沢にあったので「小沢の湯」とも称しました。

「清左衛門の湯」と同様、人が大きな声で呼べば大いに湧き、 小さな声で呼べば小さく湧き出たといわれています。

また、この「小沢の湯」では温泉たまごも作ることができます。
(天候等により湯温が変化し、温泉たまごが作れない場合があります)

野中山のふもとあたりを野中といいます。

この辺一帯は、泥の中に湯がブクブク噴いて、 杖で突くと湧き出したといわれています。

またこのあたりの土は丹(赤色の土)のようで、壁を塗る材料にしました。
江戸時代まではこの「野中の湯」は湧き出るところが浅かったので、そのため、湯をためる湯枡を設けなかったといわれています。