湯宿一番地

熱海温泉

今も昔も温泉地として相変わらずの賑わいを保つ熱海。
その人気の源である熱海温泉の起源や徳川家康公との関わりなど
プチ知識としてお読みいただければ幸いです。

熱海温泉の起源

地名にも影響を与えた温泉の湧出

  • 祈願で移動した泉脈

    熱海温泉の起源については、今からおよそ1250年前の天平宝字(755~765年)頃、海中に湧く熱湯によって魚類が焼け死ぬのを見た箱根権現の万巻上人が、漁民たちを助けようと志し祈願によって泉脈を海中から山里へ移したと伝承されています。このことは、山東庵京山の書いた「熱海温泉由来」(1830年)にも書かれております。

  • 「海」から「熱」い湯

    また、かつては「阿多美」と記していた地名も、海から熱い湯が湧き出ていたことから「熱海」と記されるようになったと言われています。

徳川家康が愛でた温泉

自分で愛で、周囲にも薦めるほどのお気に入り

  • 7日間の熱海湯治

    歴史上でもっとも熱海の温泉を愛でたことで有名な人物が徳川家康公です。慶長9(1604)年3月、家康公は義直、頼宣の2人の子供を連れて7日間も熱海に逗留(今で言う湯治のこと)しました。

  • 熱海の湯を山口県へ

    さらに同年9月には、京都で病気療養中の吉川広家の見舞いとして熱海のお湯を周防(現在の山口県)まで運ばせるほどでした。 全国レベルの名湯と知られていた「有馬の湯」ではなく、遠くの「熱海の湯」を運ばせることで、いかに家康公が熱海温泉を気に入っていたかが分かります。

江戸城まで運ばれた熱海の湯

歴代徳川将軍が御汲湯を継承

  • 昼夜兼行で15時間

    泉を運ぶことは御汲湯(おくみゆ)として歴代徳川将軍に継承され、4代将軍家綱公の時には大湯の温泉を真新しい檜の湯樽に汲み、江戸城まで運ばせるようになりました。 大湯の湯温は約90度と非常に高温で、江戸城に着く頃に湯樽の温泉はちょうどいい湯加減を保っていたそうです。記録によると昼夜兼行で15時間ほどで江戸城まで運ばれたと記されていて、運び手の健脚ぶりは驚きです。後に湯樽は船で運ばれるようになり、8代将軍吉宗公の時が最も盛んで、享保11年から19年までには3640樽も運んだと伝えられています 。

  • 歴史的会談の舞台に

    家康公が熱海を幕府の直轄領としたことで土地の治安・風紀が守られ、各地の大名、明治以降も時の要人、軍人、文化人などが頻繁に熱海を訪れ、 しばしば歴史的会談なども行われるようになりました。その伝統は平成13年の日韓首脳会議開催などに受け継がれています。

一大観光地熱海

発展、衰退、そして今尚人気を保つ保養地

  • 首都圏からの観光客

    熱海の発展は鉄道の開通によって著しく変わりました。 鉄道省熱海線(現在のJR東海道本線)の開通後、首都圏からの保養客が押し寄せ、熱海は一大保養地として人気になりました。多くの観光客が訪れるようになって、市の中心地東海岸町などには大型ホテル・旅館が数多ひしめくように建てられます。以前から営業をしていた施設でも増築をしてより多くのお客様を受け入れられるようになり、一大観光地域として変貌を遂げました。そして熱海は新婚旅行や職場旅行の定番の行き先となり、宿泊施設だけではなく、飲食店や観光施設なども増えていったのです。

  • 日帰り可能な奥座敷

    1990年代以降は、社員旅行の衰退と大型宿泊施設を敬遠するムードから転業も増えました。一方で2000年代に入り、温泉を引いたリゾートマンションが増加したりしましたが、東京方面からの保養地・日帰り温泉地として相変わらずの賑わいを保っており、いわゆる奥座敷とされ多くのお客様にお越しいただいております。


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